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三重県伊勢市朝熊町

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朝熊ヶ岳は、伊勢国と志摩国の国境にあり、伊勢神宮の鬼門を守護する山として、
神宮とともに信仰されていた山です。「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、
朝熊駆けねば片参り」という言葉もあるように、伊勢神宮に参拝した人は、
朝熊ヶ岳山頂にある金剛証寺にも参拝するのが常識でした。
その朝熊ヶ岳の北側が朝熊区(三重県度会郡四郷村大字朝熊。現伊勢市朝熊町)
であり、朝熊川をはさんで北部(被差別部落側)と南部に分かれていました。
行政区としては同じ朝熊区でしたが、北部と南部では、生活実態に大きな差が
ありました。1946年の調査では、耕作面積は南部は191戸で田地71町、畑地13町
に対して、部落側の北部は137戸で田地6町、畑地2町でした。ここで朝熊部落の
成立について説明しておくと天保の頃、猪鹿から田などの食害を守る
ために漁師を雇い入れたことが祖であると伝えられています。朝熊区の「朝熊
千町歩」と呼ばれる広大な山林は、区民全体の財産でしたが、北部の住民は共同
利用や収益配分から排除されていました。1926年(大正15)、四郷村各区の区有財産
を四郷村の村有財産として統一することになりました。区有財産統一は、朝熊区
の区有財産が他の区よりはるかに多いことから朝熊区が反対してなかなかまとまり
ませんでしたが、他の区が朝熊の財産の一部を現金で買い取ることで決着しました。
朝熊区は見積もり359町歩の山林をいったん四郷村に無償で差し出し、そのうち215町歩
を縁故者特売として朝熊区民141名が譲渡を受けるという形をとりました。しかし、この
山林の処分や縁故者特売からも北部の住民は除外され、北部住民はこれに反発し、区民総会
に押しかけてきます。この北部住民の闘争を労働農民党三重県連が支援し、労農党四郷村支部
が朝熊北部に作られ、朝熊区有財産関係者団という組織も結成されました。この「朝熊問題」
は全国水平社6回大会でも三重県水平社が差別事例として取り上げ、「無産者新聞」でも詳しく
報じられました。闘争の広がりをみて、宇治山田警察署の上野芳松署長と四郷村の西野幸吉村長が
強引な調停に乗り出し、北部住民は、現金1000円と山林約10町歩の譲渡などの条件で協定書に
調印しました。条件には、「北部の住民は、朝熊の共有財産に関係がなく、将来においても権利を
主張しない」という項目もありました。つまり、北部を朝熊区から切り離して、別の区として行政事務
をとらせるという縁切りであり、その代償がわずかの現金と山林でした。北部住民は「内容
をよく理解できないうちに、現金と山林をやるから印を押せと言われて押してしまった。これは
協定書ではなく強制書だ。合法的かもしれないが、合理的ではない」と言い悔しがりました。
協定書の調印以後、闘争は沈滞しましたが、全農三重県連の指導や、全水三重県連が部落委員会
活動を展開する中で、山本粂次郎と中西長次郎という二人の北部住民を中心に協定書の見直しによる
闘争の再開を決意しました。1935年(昭和10)5月、当時無住寺だった北部の三宝寺説教所に、
植木徹之助(僧名は徹誠、植木等の父親)が住職として引っ越してきました。植木は、それまで
一般地区の多気郡萩原村栗谷(現大台町)の常念寺にいたのですが、全水小俣支部の西中六松らから、
「朝熊のほうの活動が重要になったから」と請われて、三宝寺に移ったのです。三宝寺に着いた当日
、植木は早速檀家を集めて、「私は死人の供養に来ましたが、同時に生きている人々のよき相談相手
になるつもりでもいます。御互いに友達同士として、困ったこと、苦しいこと、何でも相談に来てください」
と挨拶しました。また植木は、「自分は部落民ではないと思う事が、すでに相手を差別していることだ」という
信念の元、差別問題に対して真っ向から立ち向かっていったといわれています。
植木が朝熊に引っ越してまもなく、四郷小学校で植木の娘に対する教師による差別事件が起こり、これを糾弾
する北部の区民総会をきっかけに北部住民は朝熊区制差別第二次闘争に立ち上がります。区制差別糾弾闘争
委員会が組織され、北部側は、区の協議機関への参加や共有財産の所有権を平等にすることなど、17ヶ条の
要求を四郷村村長、朝熊区長に出しました。南部側は区有財産の問題は解決済みとして拒否の回答を
しましたが、北部側は住民110名の連名で三重県知事と内務大臣宛に陳情書を送り、善処を要求しました。
また翌1936年、全水委員長の松本治一郎が衆議院議員に当選し、5月の第69帝国議会で朝熊問題を取り上げ、
「これほど深刻な差別事件を知りませぬ」と演説し善処を求めました。北部住民は1937年7月3日から8日
までの6日間、142名の学童が同盟休校を決行するとともに、遊説隊が手分けして県内の他部落に訴えてまわりました。しかし1937年12月、朝熊闘争を中心的に指導していた遠藤陽之助らが検挙、翌年1月にも、
山本粂次郎、中西長次郎、植木徹之助ら37名の北部住民が検挙され、水平運動の最終局面を飾ったこの闘争は結局未解決のまま終わりました。

原田伴彦, 川嶋将生(1979)「近世部落の史的研究」 解放出版社

宮武 利正(2006) 「部落史ゆかりの地」 解放出版社
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コメント

更新ありがとうございます

綺麗な写真ありがとうございます。
伊勢も行ってはるんですね(*^_^*)
本当にきれいな写真ですね。

No title

三重県在住です。
伊勢市朝熊町の歴史にこんなことがあったなんて全く知りませんでした。
色々勉強になります。
一つお時間の空いた時に解説いただきたいことがあります。
よく隣保館のある地域には、教育集会所というのがあるかと思います。
この隣保館と教育集会所の違いがイマイチわかりません。
またいつの機会でも構わないので、解説いただければと思います。

No title

猪や鹿対策に狼の導入 参照 http://japan-wolf.org/content/faq/

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