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岡山県津山市・美咲町(大久保村)

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寒さが和らいできた三月の中旬に私は岡山県津山市と美咲町
にまたがる『貝阿弥系図』で有名な地区を訪れました。「久米
北条郡大久保村」というその地区は津山城下から一里三十町の
久米川南村の内に含まれていましたが、寛永二年(1625)上村・足山村
・穢多村に分かれ、元禄三年(1690)穢村を大久保村と改称しました。
元禄年間の同村の家数は六三軒、美作最大の部落で、部落の旦那寺である
大法寺を抱え、また「革多惣頭」貝阿弥家の居村でもありました。「革多
惣頭」は「牢番役」を手下五三部落の「革多」に割付ける権限を持っていま
したが、同村の都市部落特有の役割が何であったかは不詳です。美作の「革多
惣頭」貝阿弥家の祖は、『貝阿弥系図』によると、備前国金川の城主松田元成
の被官安藤福阿弥の養子である安藤貝阿弥で、松田家が滅亡した永禄一一年(1568)
以後彼は諸国を放浪しましたが、後に美作の大久保村の権助宅に逗留し、そのまま
同村に定住し、安藤姓を捨て貝阿弥九郎左衛門と称しました。やがて天正年間(1573~1591)
の頃、小早川左衛門佐から「美作国屠者惣頭并□其外□人等が類取締り御仕置方」
仰付られ、給米二六石を賜る。これが「革多惣頭」の最初です。その子九郎左衛門(友清)
も津山藩家老から元和二年(1616)「国中□類、其方□下ニ申付候間、件之趣以諸事正路相勤
メ可申候」と申渡され、給米十六石五人扶持を賜り、その子友勝を経て治兵衛(友政)が相続
し、ついで貞享四年(1687)治兵衛(友常)が相続し、津山藩家老長尾隼人から「先規之通役目」
を相続したが、元禄三年(1690)若死し、幼少の治兵衛(友義)が継ぎます。この系図は、貞享
四年の火災で伝来の系図を焼失したので、当時八一歳であった治兵衛(友政)が、以前に「御糺ニヨリ
御上様ヘ写書上置」いたものを資料に複製したと注記しているので、かなり信憑性の高い
ものと思われ、この系図によると美作の「革多惣頭」の職を六代にわたって貝阿弥家の当主が世襲
していますが、注目すべきことは文字不明の二種類の被賤視層の「取締り御仕置方」を兼務している
ことです。その被賤視層は或は「おんぼう」「非人」の類であったのかも知れません。その「頭」
支配の組織は、藩が任命した「革多惣頭」を頂点に、番頭格の「貝阿弥手代」が置かれましたが
、当初幼少の時は後見の「添役」も臨時に置かれました。その下に五三か村の「革多」を支配する
ため七人の「小頭」を置きました。「革多」の権限が強大であったことは、元禄八年(1695)の
「指上申御請一札之事」と題する誓詞によっても窺い知ることができます。

部落解放研究所(1979)「近世部落の史的研究 下」解放出版社
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