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埼玉県比企郡嵐山町

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暑さが一段と厳しくなってきた7月中旬、私は埼玉県比企郡に位置する
嵐山町の吉田地区を訪れました。嵐山町の吉田地区には「手白神社」
があります。吉田の地は、江戸時代に旗本の折井、山本、松下、菅沼
の四家の知行地で、鎮守もそれぞれに手白神社、六所神社、峯野神社、
五龍神社がありました。大正時代になって、村の統一のため神社も手白
神社に合祀することになり、大正一二年に合祀記念碑を建て記念祭を行い
、部落の人達も大勢して、記念碑を建てるのに協力しました。特に碑の台
にする大きな石は、部落の人達が山奥から下に板を敷いてころでやっと
運び出したものでありました。ところが記念碑が建てられてみると、碑の
裏面に協力者として名前を刻まれたのは、寄付金を出した人達だけで、労力
奉仕をした部落の人達の名前は刻まれていませんでした。部落の人で名前が
刻まれていたのは、神社総代をしている山越権造一人だけでした。部落の
人達はこれに抗議し、台石を運んだ労力を金銭に換算して寄付金とし、その
額と氏名を碑の下部の空いている所に刻むことにしたのです。一般の寄付者
名とは別に、下の方に部落の人の名前が刻まれているのは、こうした差別との
闘いの結果なのでした。この合祀記念碑に最初ただ一人名前の刻まれていた
山越権造は、冤罪で殺人犯にされ獄中生活を送ったことのある山越権造のこと
です。彼は、真犯人がわかって釈放されてからは、区長や神社総代になって
活躍したのです。

『嵐山の差別冤罪事件』
明治も終わりころのことである。比企丘陵の穏やかなたたずまいの中、熊谷と
小川を結ぶ県道の切通しの開削工事現場の近くで、熊谷郵便局へ荷物を運ぶ
逓送員が何者かによって殺される事件が起こった。警察は近くの吉田部落を
集中的に捜査し、山越権造と山越藤五郎の二人を逮捕した。権造には幼い女の子
があって平和な家庭を築いており、藤五郎は四十歳過ぎても嫁もとらず婿にも
行かず、野山の鳥や獣をとっては気ままに暮らしていた。二人は非常に仲がよく
、権造の家で食事をしたり、泊まり込んだりする間柄であった。警察は権造の家
から血のついた藤五郎のナイフを発見し、それを証拠に二人を逮捕したのである。
部落の者だからやりかねないという予断と偏見が結び付いて、二人は犯人とみな
されたのである。さらに警察は権造の妻に対して、「亭主を早く帰したかったら
、事件の晩二人は家にいなかったと証言するように」としむけたのである。
こうして予断と偏見によって犯人と断定された二人は獄につながれる身となったが
、権造は獄中で読み書きの学習を始めた。当時の部落では、差別と貧しさのために
義務教育すら受けることができず、文字を読めない人が大半を占めていた。その文字
を獄中で取りもどすということは、大変なことであった。権造はそれをやりとげた
のである。この努力が彼の出獄後の活動の基礎になったのである。罪の方は幸いに
して受刑中に真犯人が現れたため、無実が明らかとなり釈放されることができた。
出獄してからの権造は、その後間もなく始まった水平運動に身を投じていった。

吉田部落では、祖先の苗字を取り戻す改姓運動も起こりました。それまで吉田部落
の人達は「山越」という姓を使っていました。山越の姓は、明治の初期苗字が一般に
用いられるようになったとき、名主が吉田部落の長老を呼び出し、「おまえの所は
山を越した所にある。ならば山越でよかろう」と言ってつけた姓であるといわれていました。
大正デモクラシーの波が広がり、水平運動が起こってくる中で、吉田部落の人達は
社会的にめざめ、小作料減免要求や手白神社の合祀記念碑差別事件などに取り組んで
いましたが、その時、村に伝わる伝承や家紋などから「山越」姓に疑問を持ちはじめ
調査を開始しました。その結果、山越姓の人達の家紋が三階松で松に関係があり、一番
古い家の先祖の墓石に松本弥左衛門の銘が刻まれていることがわかり、昔は『松本』
姓であることが確認されました。そのうえ、近くの名主鞠子才助の家から、『七郷の記』という
古文書が発見されて、松本家の由緒がさらにはっきりして、松本家は天文年間
に、甲州からこの地に移り後に徳川の直参となった『折井淡路守』に従って来て、その領地を
管理するかたわら、武芸に励む為に他の村民から遠く離れた山腹に居を求めた『松本某
の後裔である』と記されていました。この事実をもとに部落の人達は、それまで動こうと
しなかった栗原勘一村長に働きかけ、村長はただちに墓石の拓本をそえて裁判所に改姓手続を
行い、出願は採択されました。この改姓運動を推進し、村長を動かしたのは、後に水平運動を
積極的に担っていく松本軍次郎や松本権造(山越権造)達でありました。運動が始められて
五年、大正一五年に裁判所は、「山越」姓を「松本」姓に改めることを認めました。喜びに
わく部落の人達は、旧主折井淡路守の菩提所、上吉田の宗心寺において改姓報告祭を、松本
伊三郎方で改姓祝賀会を催しました。彼らは与えられた苗字に疑問を抱き、自らの力で祖先の
苗字を確かめたのです。

埼玉県部落解放運動史編纂委員会(1984)「埼玉県部落解放運動史」部落解放同盟埼玉県連合会
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コメント

かなり、いろんな所に行っていますね。
これからも、美しい
風景、楽しみにしています。

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