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舳松人権歴史館を訪問




舳松人権歴史館のある舳松村は、以前訪問した奈良県御所市柏原地区出身で、部落解放運動家である西光万吉第二の故郷と言われています。

彼は柏原と舳松を水平社運動の拠点として活動していました。

舳松村は現在「協和町」という地名になっています。

1925(大正1年)の10月に、舳松村は堺市と合併し、1929(昭和4年)12月、舳松村を母体とした「耳原町」ができあがります。そして、1957(昭和32年)10月、耳原町から大仙中町、大仙西町、旭ヶ丘北町、協和町などが分割していきました。

舳松村では、江戸時代から被差別身分として、
皮の生産・雪踏作りなどの仕事を請け負っていました。

しかし、それだけでは安定した収入は
得られずもう一つの仕事として、舳松村で1950年代まで祝い芸として受け継がれてきた
「おいえみかげ」というのがあります。

「おいえみかげ」は春駒といわれる門付け芸のひとつで、家の門口で祝言を述べたり、芸を行ったりして金品をもらう芸能で、部落の人々は、堺市のみならず大阪市内まで出稼ぎに出掛けました。繁盛記は正月ですが、やはり、裕福な家などでは物乞いと思われ、差別されることもあったそうです。

舳松地区の盆踊りとして、「舳松踊り(ドンデンカッカ)」というものがあります。

「ドンデンカッカ」とは、太鼓のドンデンという音の後、バチで太鼓のふちを叩いて出るカッカラカッカという音から、戦後になってそう呼ばれはじめました。

踊りの歌詞も、「一里山から我が家を見れば、草履おもての手内職」というように当時差別されていた人々の苦しさや情けなさなどの心情がこめられています。

舳松地区の住環境は劣悪で、1960(昭和35年)、住宅戸数778戸、約3万坪の面積を有す協和町の不良住宅率は、81.1%でした。

当時の舳松村は、堺市の工場誘致施策により、周囲にできた工場の影響で公害が発生し、さらに、密集した家々、共同便所、共同井戸、「はんらく」と呼ばれた狭い路地などさまざまな影響によりできた環境がさらに部落差別を助長していました。

1961(昭和36年)に、「総合的同和事業計画」の請願書が堺市長に提出され、1972(昭和47年)に、本市は、「堺市同和対策事業総合計画」を策定します。

それにより劣悪な住宅群が取り壊され、改良住宅が建設されていきます。浴場や福祉センターなどの施設も建てられ舳松の生活環境は、改善されていきました。

参考文献 舳松の歴史と文化 地図と写真が語る舳松 


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